KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年9月号
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がありました.「これナンボした?」悲しいかな関西弁にまだ慣れてない私には、さっぱり意味が通じません。「これナンボしたんやときいとるねん」と、その友だちは「ナンボか」ということを何度もく℃返えしました。そこでやっと私にもおぼろげながらもわたしとこうべ戸塚文子■忘れもしないあの関東大震災(大正十二年)で東京の家が焼け、父の勤めの関係(鈴木商店勤務)もあって神戸にやってきたのは、私が丁度小学校六年生の時でした葺合区旗塚通五十番屋敷に住承、雲中小学校に転入した私は、子供心にも「神戸はなんて衛生的な文化都市だろう」という印象をもったことを今も覚えています。始めてやってきた神戸の印象は、ミゾがとても椅麗で蚊がいなかったことです。そして便所の汲承取りが、夜中にきて午前四時以後は絶対に姿を見せなかったことに驚かされ、かつ感心したものです。私はよく〃神戸っ子″と間違京、神戸には小学校の六年からわずか六年間住んでいただけです。まず私につけられたアダナが〃チャッチャッ〃lこれは当時、東京ではオハイ車(進駐軍たちはこれをハニー・バケツと呼んでいました)は、昼間に通ってましたから何んだか東京の方が田舎くさく、先進国へやってきたためとんでもないトンチンカン問答をやったものです.を使うことから、きたものです。私がよく「なっちゃった」「…しちゃった」という言葉ような思いを持ったものです。××××雲中小時代の思い出l今でこそ関西弁に不自由を感じませんが、当初はまず「関西のことば」にとまどいました。神戸の友人たちも私の話す「東京弁」がわからないしたところが、これを目ざとく見つけた友だちから質問ある時、二十五銭で買った新しい学用品を持って登校1011われますが、生まれは東女学校五年を出るまでの

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