KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年9月号
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「もう、有馬はお古いんですか」「いや、まだ五年です」これでは、どうしようもなかった。じつをいえば、私は有馬にいままで縁がなく、たった三つの知識しかもっていなかった。一つは、行きがけに女一房が、「パンマがいるそうよ」といったことである。それをこの男のあんまさんにきいて承ると、言下に否定した。「他の温泉にはいるのですが、ふしぎとここはいません」‐もう一つは、ヌード・スタディオがあるということだった。その存在の有馬を女中さんにきいて承ると、これは肯定した。「でも、つまらないんですって、もっとそういうものをこの町に入れればお客が来るというんですけど」「それは迷信ですよ」と私はいっておいた。わざわざ高い金と無い時間をさいて温泉場にヌードを承にくるあほうはないだろう。そういう興行や淫蕩なふんいきで客をつるという精神が、もし将来の有馬の有力者のなかにきざしたならば、ほどほどがいいといいたい。客は色情狂ばかりではないのである。第三番目の有馬知識は、足利家の幕将赤松則政の支流の子孫で、戦国初期に赤松与次郎則景という者がこの摂津国有馬郡を領し、有馬氏と名乗り、のちその子孫が居城を播州三木に移したり、同淡河に移したりしたが、依然としてここを領し、豊臣秀吉の時代になってから帰伏して遠州横須賀三ガ寂千石に移封され、のち徳川家康につかえ、大阪夏ノ陣ののち、久留米二十一万石の大大名になった。明治以後、この家は伯爵となり、いまの当主は、作家の有馬頼義氏である。と思いだしながら、ふと、有馬頼義氏は、自分の姓のオコリであるこの有馬温泉にきたことがあ為だろうかと考えたりした。女中さんにきくと、宿の主人は、いま新館の経営に力を入れているそうで、そのせいか、この旧館の私の部屋などは、紙障子が点々とやぶれていた。それがいかにも、有馬のこんにちを象徴しているように思われた。あと十年さきにはどういうことになるのだろうと思いながら、仕事の筆をやすめて、窓から外をのぞくと、いかにも眺望のょさそうなこの部屋から、なにも見えなかった。視野を、鼻さきで、製薬会社のようなビルがさえぎっていたのである。それも、宿の一つだそうだ。‐窓に人影がないから不審におもってきくと、女中さんは、なにも答えてくれなかった、なにか、客のいない理由があるのだろう。とにかく、有馬は涼しかった。仕事もすすぶ、朝の寝醒めも快適だった。こんど、、もう一度、あそびに来ようと思った。171

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