KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年9月号
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一そろい持ってきてくれと頼んだが、るきりだった。そこに「創業七百年」であとは、女の人力浴室でシカってPIの写真か出ているだけだった。こんなケーブルなら、ほかの温泉郷にもあるし、温槽で婦人が浸っている写真をゑて欲情して大阪・神戸からやってくるばかはないだろう。なんと、宣伝下手なパンフレットか、とおもった》有馬の特徴は、京阪神の都心圏のすぐそばにありながら、なお古色を残している所にあるのだ.古風な建物をたてよ、ということではない。この泉郷が、奈良朝平安朝以来、中央の貴顕紳士の湯治場として愛され、宿も、いまだに何々坊という名を残しているように、それぞれが数百年の伝統をもっているはずなのである。それが一行も出ておらずに、ケーブルカーばかりが大いに派手に印刷されていた.全国の温泉でもまれなその特色を、この土地は、むぞうさに捨てているようである。「このほかないの」「ないんです」「この宿の名のオコリはどういうことやろ」「むかし黒出官兵衛という人がつけてくれたそうです」しかたがない、とおもって、「あんまをよんでもらいます.男の人で、なるべく土地にふるく、話好きな人を」女中さんはすぐ帳場できいてくれたが、その条件にあう人は、いま六甲に仕事にでかけていて、いない、ということだった。やがて五十年配の男のあんまさんがきた。私は療治をもらいながら、中さんにきいてゑた。有馬やこの宿まで、宿を一歩も出ずじまいだった。(これでは、五十嵐さんに悪いな)と途中で考えて、夕食のとき、酒をすこし飲承ながら、係りの女と書いてあるが、それ?きり161です」「それでよかったんです。ここはいい」しばらくして、両氏は神戸へ帰って行った。私は仕事を始じめた仕事のキリメを我つけて、有馬取材のために町へ出るつもりだったが、どうしてもキリメが承つからず、ついに翌朝、宿を辞去するいる写真と新館のケーブル・力のことを書いたパンフレットを宿の宣伝用のそれが、一枚あ

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