KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年8月号
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1451「夕方の汽車で東京に出張したよ」「くそ!さんざんハッパをかけておいて」「こうなる結果は解っていたのだがな」「部長、じあ局長をはじめ社の幹部は、港湾関係の圧力に屈伏したわけですね」「そうはっきり云えんが」「はっきりして下さい。ここまで来てですよ。今更」部長は領いた。この問題を局長に掛け合いに行った時部長が示したあわれむような淋しそうな笑いが、口のあたりに漂った。「判るよ。その気持は。僕だって新聞記者のはしくれだ。しかし客観情勢ってものがある。その上だ二週間も毎日同じ事件を扱ってはタイミングが合わなくなるという事も考えなくてはね」「局長の口実ですよ、そんなの.全港湾のストライキに利するからと云うのが、・本音でしょう。いいじあありませんか。真実は真実なんだから」「まあ、そんな馳けだしゑたいな事は云うなょ。あとは悪いようにしないから。」私は原稿を掴むと、屑箱に叩き込んで席を蹴った。まんまと局長に一杯喰わされたのだ。局長の言葉を素直に取った私が馬鹿だったかも知れない。「だが、そんな事が許されてたまるか」と私は心の中で怒鳴った。私はその翌日から一週間、無断欠勤をして社にも記者クラブにも顔をださなかった。私が三田支局へ転勤命令を受けたのは、それから間もなくだった。私は社をやめようかと思った。だが部長に慰撫されて退職願いだけはださなかった。記者クラブに挨拶に行くと、もう他の社の連中はふな私の転勤を知っていた。私は自潮するように「やり過ぎて島流しさ、これからという所でね、これがおたくのような大新聞ならなあ」「部長、ひどい、ひどすぎますよ」「だがね、青木君、地方紙じあ一流中の一流紙であるK紙さえ、どうやら雲行きがあやしくなってきている。まして本社の力ではね。それに、局長の意見もあって」「局長は何処ですか。」

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