KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年8月号
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、1431耕三勝・画私が興港会の幹部から呼びだしを受けたのも、その前後だった。興港会というのは二次下請会社の組織している親睦団体である。私は受付に迎えのものが名刺をだして「自動車を待たせてありますから」と云ってきたとき、「とうとうきたな」と思った。社会部の元の仲間は「奴ら荒くれの若い者を使っているから、社長とか専務といっても商社のそれとは違う。充分気をつけるよ」と心配してくれた.なかには留守を使えばよかったのに、とか、危険だから行くなという者もあった。「どこか知らんが、とにかく行ってくる。行った処から電話だけはしておくよ。万一の場合、スクープできるようにな」私は冗談のつもりで云った.少くとも登録されたレッキとした会社の重役連が暴力行為に及ぶとは考えられなかった。だから私は仲間が心配するほど不安は抱いていなかった。迎えにきた若い者といっても二十七八才の男も丁重を極めた物腰だった。自家用車で送り込まれた先は、神戸の山手にある花街でも一流の料亭であった。玄関には角刈りにした小頭風の男が二人、私のかがとの減った靴を押しいただくようにして脱がせ、部屋への案内はまた別の二人が「よ局謹こそ、おいで下さいましたお待ち兼ねでございます」と先に立った。いささか時代がかったヤクザの演出を思わせた。床を背にして坐らせた。社長、重役、代表社員と一肩書きのついた名刺を次々と渡された。どの手も、骨が太く大きかった。あいさつや言葉つきは、不気味なほど丁寧で、甘く見てやってきた自分の不用●意さがくやまれた。恩田組の代表社員と名乗った四十がら承の男はでこの席を設けた首脳者なのであろう。八前回までのあらすじV私l阪神日報の海運記者は、波止場で事故死したアンコの死因を追求した。‐アンコ吉田は砂糖を掻払ってリンチを受けたのだった。私は足で調べて歩いた。手配師の隆が、吉田の加害者にされた。真実を追求する私の身辺にも黒い篭が忍びよった。同時に何故か最初は記事にのり気だった編集局長の顔も曇った。そして来るべき時がきたのだ。連載最終回中細西野牡

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