KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年8月号
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プロに入った頃に一度、夜の神戸をブラついたかな。もし大阪にセントラルのチームが二つほどあって、ゲームのあい間に休承があれば、長嶋らを神戸に案内できるんだけどね。いまのように、来た翌日はゲームでしよ、終ればすぐその晩帰えるんでは、僕に暇があっても、長嶋の方には暇ができないんですよ、たまに宿舎へ「オイ、どこかへ行こか」って誘いに行くのはいいけど、しょっちゅう誘いにはいけないしね」長嶋「あいつが来るといかんlとにらまれちやうものな(笑)会わないからって手紙することもないね。第一、僕が手紙を書くぐらいなら、こりやえらい進歩ですよ(笑)」本屋敷「こっちも書かんものね」長嶋「手紙なんか出さなくても新聞や雑誌で全部紹介してくれるからな(笑)」本屋敷「ときどき本人の知らないことまでのるからな(笑)」長嶋「それはそうと、僕は関西にきてたまに休承があれば、大阪より、どちらかといえば神戸の方によく出るね。何も神戸の雑誌だからって言うんじゃないけど(笑僕は大阪より神戸の方が好きですね。何んていうのかな。神戸はちょっと横浜ゑたいな感じがするよね。非常に明るくて、ムードがあるよ。それに、神戸の町は、バランスがいいんですね。山あり、海ありねつまり、上の方へ行けば海が見下ろせ、海へ行けば山の感じが出てるし、そういうバランスのよさですね。須磨辺りは東京にはないですからね」本屋敷「僕も東京へ出てゑて、いろんな面を比較するけど、ほんとに神戸はいいな」長嶋「食べ物もう童いと思いますね。東京にもうまいとこはあるけど、やっぱり神戸だな、とくに肉のうまさはさすがだね」本屋敷「僕が比較的よく行くのは三宮の〃赤ひょうたん″とか、烏を食べたいときは〃土井〃などへ行くね」長嶋「神戸には、シニセを誇る1271安達昭三近頃「不快指数」と云う言葉が流行している.その言葉を打消すのが、長嶋君の活躍だろう。彼の行く所拍手また拍手、賞讃また賞讃。六大学クーグで連覇以来今日まで、〃男の花道″を歩承続けている彼である。杉浦君も本敷屋君それぞれも彼等の持味を生かし、人気を維持している。私が彼等を知ったのは今から七年前の立教時代である。当時は砂押監督(現国店が多いんだろ。それに住んでる人も、昔から住んでるっていう人がほとんどじゃない」本屋敷「そういう感じだな。もっとも野球人はほとんどいないね第一阪急の選手の中にもいないものな・買いものは、例えばクッ、替ズボン、シャツなどは神戸でよく買うけどね」結婚と女性の話長嶋「ところで、杉浦もとうと鉄監督)のもとにスパルタ式練習で、下級生の彼等は気の毒な程絞られていた。ボール捨いグランド整備は勿論である。彼等が合宿へ引上げる頃は、いつも陽は沈んでからで、合宿では規則、門限、先輩からは説教と、今の彼等からおよそ想像の出来ない日々の生活ではあった。しかしその生活に打ち勝ち心、身、技共に鍛えられ、先輩達の遂げ得なかった春、秋運続優勝の偉業を成し、一方長島君はリーグのホームラン記録を樹立する等、球児にとって最高のポール・ライフを味わっている。しかし彼等トリオには最高はない、常に記録への戦であり勝負には勝たねばならない、連日新聞を賑わしている〃三冠王″たしかに打者にとっては最高の魅力であり、栄与でもある。長島君は今その最短距離にいるが、記録は作ろうとして出来るものではない。無心無欲が記録を生むのだ。ファンも記者も同僚も、暖かい目で彼を見静かに眺め、日本球界前人未踏の栄冠を与えてやりたいものだ。今日も彼は「不快指数」を打消す快打を放ち続けている。(芦屋高校明治大OB東京にて連中とは下宿友達)二二一厘産一

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