KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年8月号
21/56

諦熟』「しかし、白髪がふえた」「これはほんのワカシラガや」と、私は排明した、あとで、広東料理をたべさせる家へつれていってくれた。私どもは、おなじ大阪外語の同窓だったが、赤尾君はシナ語部であり、私は蒙古語部だった。「お前」と赤尾氏が、「クッをはかずに、ヤッワリばかりをはいていたな」「そうや。そのお陰で、いまだに紳士グッのよしあしがわからん」そのあと、「蛸の壷」という店に、杉浦、赤尾両氏と行った。大阪には、祭り月になると明石の蛸を食う風習があるが、ことしはまだ食っていなかった。そのことが、ひどく気になっていたのだ。「そのせいかな」「なんのせいや」赤尾氏がたずねた。「いや、妙なほど蛸がうまい」帰りは、また夜になった。17勘rk

元のページ 

page 21

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です