KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年8月号
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16い磯川さんのようなタイプのひとは、東京や大阪にはいない。「市民志士」といったひとなのだ。いつも市のことを考えているおれが市長ならこの町をこういうふうにする、という手の施策を烈々と考えている。私が神戸をあるきはじめてもっともおどろいたのは、磯川さん型のひとが非常に多いということだった。これは、どういうわけなのか。日本では神戸だけにしかないこの特徴には、どことなく西洋のにおいがする。都市国家から発展した西洋の町には、町全体を自分の家庭だと考える伝統がある。共和国思想とはそういうごく自然なナリタチのなかからうまれてきたものだ.そのあと、マキシンの渡辺利武氏、婦人下着「スギャ」の杉浦実氏などに会ったが、いずれも、この型のひとである。かれらは神戸を愛し、それぞれが繁栄のプランをもっていた。とすれば飛躍的な神戸繁栄策が考えられてもよいのではないか。たとえば、大阪のキタの繁華街に「お買物は神戸へ」という大ネオン塔をたててはどうだろう。神戸の商法は、伝統的に、品質第一主義だという。事実、元町でもトア・ロードでも、わざわざ大阪や東京から買いにくる客が多いときいている。そういうごく一部の眼利き連中だ〃の習慣をもっと拡大させて、新聞、テレビ、ラジオなどの広告媒体をつかって、他都市に対してもっと神戸の商店街ブロックを売りこむ必要があるのではないか。※車が県庁のそばまできたときに、五十嵐さんが「ちょっと待っててください」と姿を消した。しばらくして、ひとりの男性をつれてきた。「ああ」と私は眼を承はった。学校を出てからかれこれ二十年も会わなかった友人が、そこにいた。毎日新聞の県庁詰記者である赤尾氏だった。「お一則かわつとらへんな」と赤尾氏がいった。「うん」ロ

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