KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年8月号
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牌神戸では、最初岡本にいた。白い乾いた風景のなかに爽竹桃の花が咲いていた。広い直線の道が海に向ってい毎、これを歩いてゆくと、穀れかけて黒い中味を承せたビルがたっていたりした。「独り子と海辺の異形なビルの根に」という句を作ったのもその頃だ。白い風景のなかで、廃錘と化したピルの黒さが異常に思えたのだった。異常といえば、すぐ近くに波多野爽彼がいて、彼が主宰している俳誌の座談会に呼ばれたことがあるが、そのとき集った若い人たちの画から、、観念という言葉がしきり金子兜太にでたこともそうだ。この風景のなかで観念という言葉は、やはり黒く異常に思えた。それから、摩耶山麓に移った。山手というにふさわしい山麓の傾斜は、夜は港の灯を一望のうちに納めさせてくれた。外人の家も多く、昼間散歩していると、金髪の少年が洋風の家陰で立小便をはずかしそうにしているのを見かけたこともあった。港に近づくと汚れた家が密集していて、そのこわれかけた塀はほこりをかぶっていた山手の明るい風景とひどく対照的に思えて、ドストエフスキーの「未成年」のなかで、・主人公が塀の穴から自分の陰茎を出していて、そこを通る女性が驚くのをよるこ神191一註文中の永田さんは俳人、永田耕衣氏、赤尾さんは俳人、赤尾兜子氏、詩人の小林さんは小林武雄氏戸の思い出んでいたところを思いだしたりした.ある新聞に頼まれて、金髪の少年と未成年を対比させた神戸所感を書いたことがあった。この文章は、たしか大阪本社に送られ、強烈すぎる、ということで没書になったが、いまも忘れられない。神戸は半分明るく、半分暗い街のように思えてならない。その頃、俳句を生涯のものにしようと決心していた.永田さんや赤尾さんの恩顧と友情が随分な力になり、知己を得た。ぼくは、神戸にいて俳句にこころをかためたことを非常に好運と思っている。永田さんの須磨の家では詩人の小林さんたちと座談会をやらせてもらい、橋間石さんを知った.雨もよいの深沈とした庭は詩を語るにふさわしかったし永田さんの二階の部屋も中世風な憂愁を感じさせ、印象深い。赤尾さんとはときどき飲承、これに板垣鋭太郎も加って、酔った.酔うほどに港町の哀愁を感じた。これらはすべて、ぼくの俳句の肥料(こやし)になっていった。消防局から出ている「雪」の編集者の好意も忘耗がたい。神戸はビジネスの街といわれ、人々は表現の世界に遠くいるように思われただけに、俳句を通ずる交情は輝いている。その頃、務め先の関係でマージャンもおぼえた。クリスマスの夜ガード下の麻雀屋でやっていると、外で激しく人の体のぶつかり合う音をきいた。出て承ると裸で喧嘩した男の一人が血を流して倒れていた。場所をかえよう、誰からともなくいいだし、家に帰ってまたはじめた夜明け近く、下の道を大勢の男女が聖歌を歌いながら歩いていった。疲れたぼくらに、その歌は山気とともに清浄にながれてきた。ぼくはそのとき以来浪費を避けようと思いたちますます俳句を愛するようになった。(俳人)
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