KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年7月号
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必八前回までのあらすじV私I(阪神日報の海運記者)はアンコ死亡事件を追求してその確認を得た。だが、部長は何故か、記事として報道することに気が進まないふうだった.私は部長に喰い下った。ここで諦めたのでは一切が水泡だ。波止場の巨大な構造、勢力に私が負けたことになる。「とにかく、局長に相塞唾して承て下さい」「話すだけは、話すがね」「それじあ困ります.絶対に活字になるように頑張って下さい。第一、この暴力事件を見逃してしまったのでは街を明るくする運動、暴力追放はカラ念仏じあありませんか」「判った。一諸に局長のところに行こう。俺にその科白をたたきつけるより、局長にぶつけた方が効果はあるぜ社会正義の戦士、記者精神に徹した青木孝男君、万才ってわけだ」部長は私の胸中を見抜いていた。新聞記者生活二十年の部長は、いい面も悪い面も知り過ぎている.いくら私が猪突を試承たところで、口では「そうだな、君の云う耕三勝・画連載第4回通りかも知れん」と云っても、腹の中でば、反対の事を考えているにきまっている。その証拠に部長は私をからかいだした。私は意気込んで、部長は幾分迷惑そうな表情で局長の机の前に立った。局長は私が調べた簡単なメモを見ていたが、眼鏡をはずして上目使いに私を見た。部長と同じことを云うものと、決めていた私は、最初、局長の言葉に、自分の耳を疑った。「行こう」「はあ?」「やっつけようという〃だよ。丁度、兵庫県下一斉に暴力追放期間だ。大々的に報道して県政市政の方針にそうようにしよう」私は局長にそう云われて、そう云えば生田署にも三階の窓から地上にとどくほどの大きな、「暴力追放、明るい街作り運動」と書いたのぼりがさげられていたのを思いだした.「それにしても、よくやったね。青木君。こういう問題はとかく掛声だけに終ってしまうものでね。頑張ってくれ給えよ」「はい」私は感激した。血管が一度にふくらむように胸が熱く中細西野1471

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