KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年7月号
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史、日が暮れ、体力がつきかけたころ、断崖の頂に谷川が流れているのを発見した。「この川床を歩こう」川は、かならずふもとへ流れている。川の流域に人家が密集するのは、人文地理学の通念である。われわれは、川をつたっておもわぬ町に出た.宝塚市だった。※「こんどは、六甲にご案内します」と、「神戸っ子」の五十嵐恭子さんが、三宮駅前から、私を自動車にのせた。「先生、六甲ははじめてですやろ」ばかにするな、と私は五十嵐さんをにらんだ。いくら神戸知らずの私でも、六甲だけはなんどかのぼっている。「これも、神戸市灘区のうちでつせ」六甲のよさは、多くの人によって説かれてきたが、その第一は、この山が市内にそびえているということだろう。案内役として、洋菓子「ヒロタ」の広田定一氏と兵庫トヨタ自動車の中塚裕久氏と若林酒造の若林泰氏が、同行してくださった。若林さんは、関学と神戸大学とで日本史を専攻したひとで、六甲にあかるい。「六甲は、明治になってから外人がひらいたというほかは歴史がいんです」「そこが六甲のいいところですよ」と私はいった。もともと、日本の名山というのは、ほとんど、僧侶がひらいたただしくいえば、修験者(しゆげんじや)がひらいた。役(えん)ノ行者という山好きの超人が千四百年ほど前に出て生涯山あるきをした.かれがひらいた著名な山は、富士山、御岳大峰山、葛城山をはじめ、全国に数かぎりもなく、それらがすべ修験の行場になっている。六甲山は、そうではない。外人が、避暑のためにひらいた山である。この山には日本の山にありがちな求道性もなく、哲学も液い、哲のはんらんする日本の自然のなかでは、めずらしい例である。1911回て、学な

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