KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年7月号
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{ハ連載第四回。叫臣w溶些上人飢坤・え・帝甲燕凹畦粉私は低山趣味で、十一一一才のときに大峰山にのぼっていらい、近畿地方の名ある低山は、ほとんどのぼった。「これでも登山家だよ」と人に自慢をする。ただし、日本アルプスは、のぼったこともないし、のぼろうとおもったこともない。絵ハガキをふるのも、きらいである。そういう低山登山家が、中学四年の正月に六甲で遭難しかけた。拝賀式をおえると、急に低山にのぼりたくなり、級友四人をさそって、その足で六甲へ出かけた。「おれ、朝めし食わずにきたがな」「どうせ、山の上に茶店でもあるやろ」大汗をかいて山頂にまでのぼると、元旦に六甲にのぼるばかはないと承えて、茶店は木戸をおろしていた。「おかあちゃん」と泣きだしやがった男がある。たべものがないとわかると、急に心細くなったにちがいない。下駄、というアダナの小男で、いま三菱の桂工場で、有能な機械技師になっているという。腹がへると、歩けなくなった.私へのあてつけに、這いながら行くやつもあった。「お前、なにを食うとる」私が驚ろいてその男にきくと、男は、口を開けて承せた。ミカンの皮がいっぱい詰まっていた。むろん道でひろったものだ。「では、近道しておりよう」それがわるかったのである。人生のどういう場合でも、あせって近道をすると、ろくな結果にはならない。われわれは奥六甲にまよいこふ、道かと思って進むと断崖だったり、消えていたりした。■ここに神戸がある甲山1181

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