KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年7月号
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とであろう。人造氷のなかった往古では、天然の氷を貯えて夏日の用を供したのである。この貯蔵所がいわゆる氷室(ひむろ)と呼ばれるものである。しかもそのH本最初のものとして、わが神戸にあるものがつたえられている。市バス石井町五丁目下車、西北へ爪先きあがりの道を約十分、山かげにひっそりとした宮がある。即ち氷室神社(氷室町二丁目)である。同社の由緒書によれば祭神を仁徳天皇とし、かねて平清盛の兵庫七弁天の一社として弁財天をもまつるとのことである。その本殿の左側をさらにのぼると境内社として、稲荷さんがあるがその階段の左下、岩にたたまれた洞穴がある。これがその氷室遺跡とつたえられているものである。日本書紀の記載によると仁徳天皇六十二年(西紀三七四)額田大,中彦皇子(ぬかたおおなかつひこの承こ)がこの地に狩をした時に、一つの小屋を見つけた。里の長に問うたところ、「これは氷を貯える所で、氷を茅や薄などの草で包み、土中に入れて貯蔵するのです」とこたえる。そこで皇子はよろこんで氷を天皇にたてまつったとある。以来、例年献納のことが行なわれたといわれる。今その洞穴は、山麓の樹蔭にひそやかにしずまって、清らかな水を氷室にて野中春水。(付記)仁徳紀の氷室遺跡を奈良県山辺郡都○の地とする説があるが、西摂大観などに説く論により神戸夢野説に従いたい。(神戸大学文学部教援)16扇子、団扇はもちろんのこと、もはや扇風機なども斜陽族、ルームクーラーなどといった冷房装置がはやりだし、涼を納るる人智も日進月歩のありさまである。電気冷蔵庫にはいつも清潔な氷がたくわえられているが、おもえば昔は、夏日の氷はまさにその稀少価値において貴重なる存在であった。枕草子一本に『けづり氷(ひ)のあまづらに入りて』との表現があるが、この文面によりすれば、ぶつかき氷に密をかけるのではなくて、『あまづら』(蔓草の甘い液汁)のなかに氷の破片をうかすのである。珠玉に対するおもいを秘めて王朝人はその氷片を愛したこ浅くたたえている。しばらく対していると万古の冷気が自ら流れくるのをおぼえる。原始素朴の代の風趣がいじらしいまでに身に迫ってくる。時の流れは一千有百年、思えば今のこの世に生をうけたわれらの、如何に恵まれたことであろうか。まことにありがたき時代である。けれどもまた、この物質文明を謡歌する一面、時に古い祖先の苦難の日を回想し、われらの生活自体に反省と敬度の念をもってむかいたいものである。われらの享受する恩恵も、長い年月の苦難の蓄積の上に成りたったことに思いをいたしたいものである。例年正月、寒の入りの頃に、製氷会社や氷組合の人たちによってこの社前に祭りが催されるとのことであるが、まことにゆかしい行事である。そうした人間性の上にたって、日々を新しく培ってゆきたいものである。

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