KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年7月号
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涼部伊都子21家の背、北側の山壁ががさっととり去られたら、急に風が涼しく通った。十四、五メールの切ったての山はだは、あらあらしいナマの土をむきだしにして、私のうしろにそそりたっていた。南は海を、北は山をひかえている神戸の東の端で、大阪湾の月をながめてはやわらぎ、切ったての拒絶にあっては心をひきしめて暮してきたこれまでであった。たったふたまの、小さな小さな住いだけれど、旅へ出てもここほど落つける場所がないので、仕事以外に旅を思うことはながった。だから、どんなに暑い夏でも小さな家の小さなひと部屋に、飽きもせずこもっている。それが心の涼であり、また、身体の涼でもあった。文明の利器は大世帯にあると便利に活用できるのだろうが丈ひとりの暮しにはかえって手数のかかるわずらわしさがある。洗濯機も、掃除機も、冷蔵庫もない。扇風器さえない状態で、それでも結構、涼しく過していられる。南の風をうけるだけでも扇風器なしですこせたのに、北の壁がなくなってすうつと風が通うと、へえ、こんなにとおどろくばかりだ。しかし「裏の山が切りだされたそうで、おめでとうございます。」などとお電話を下さる方があるのだが、それがどうも心重い。この切ったては水防、砂防の上からいうと危険なものだったから、それが平坦な宅地にかわることは、安全の上にも、地価高騰?の上にもよいと人々からは思われるらしい。だが、私は、この切ったてを心から愛してここに住いを定めたのであった。繊細なもの美々しいものに心傾きがちの私を、この荒土がどんなにしゃっきり、その甘さを拒絶してくれたことか。土砂くずれどめさえしてあったら、そこは永遠に、そのままであってほしい願いだった。未開の地を、どんどん宅地化してゆくことは、今の状態では必要なことである。私は自分のそんな願いがまことに身勝手なものと知っているから、裏の開発で、新し
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