KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年7月号
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イタリアだって本州と北海道を合したほどの長靴だ。オランダにいたっては九州よりちょっと大きい程度。しかもオランダ中でいちばん高い地点が、海抜わずか五メートル。(カイバッときいてあきれる/)日本アルプスやフジヤマのある日本と比べて見たまえ。ドイツには南の海がないし、スイス、オーストリア、チェコは、山梨県のように海を知らない。それに比べて日本はどうだ。敗れたりといえども、さい果ての北国から南端九州まで四辺海に囲こまれ、山河の恵承、春秋のさちたぐい稀れというべきではないか。この国に生をうけたものは、一歩も国外に出でずして、生涯を旅ざんまいに生きることができるのだ。幸福をわがものとする豊かな情操と、ひろびろとした気がまえさえあれば、鞄とリュックのなかに天国をつめこんで、祖国のさちを満喫することはいとやさしい。寒流あり、暖流あり、北海のサケとタラ、油壷の熱帯魚、九州の亜熱帯植物、火山、温泉、砂漠、そして何よりも千何百年の歴史の跡。旅情と感傷の苗圃は、きわまりなく豊富だ。必要なのは自由な心とすなおな感受性だ。とざされた団地の一室でも、われわれは旅ざんまいにふけることができる。ゑだりに空を飛ぶな。海外を夢承るな。マネーピルにこりかたまった心の診血を撰承ほぐらかして、あらためて祖国の水と花を見なおして承ようではないか。どうせ人間は一回よりこの世に生きられない。死と税金ほど確かなものはない。死は永遠である。幸福の盃は飲めるときに飲むべきだ。ウラニュームの鉱脈より、心の鉱脈を掘りあてようではないか。自由に、豊かに、おおらかに、のびのびと、いのちの晩秋において、旅情と旅愁をふかぶかと思出のうちに味わえる生涯、わたしはそんな一生を生きたいと思う。(兵庫県知事)171

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