KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年6月号
9/60

古林喜楽中西勝五十年に近い馴染承の土地ともなると、愉快な思い出や懐しい追憶も多々あるけれども、また恨承も一つや二つではない。昭和三年の秋深きころ、いまの天皇の御大典が盛大に催された。神戸もお多分にもれず、上を下へのお祭り騒ぎであった。その夜、私は友人二人と布引の市電通りの曲りかどのところをそぞろ歩きしていた。そのとき突然うしろからパッとヘッド・ライト、あっと思うまに二間ほどとばされ、私が四つん這いにへたばっている上へ、なおも自動車がのしかかってきて、私の足を車輪が一・二米押しづりつけた。「やられた」と観念したが、意識が案外たしかであるので、車が止まるとともにとび起きた。連れの一人は車の下敷きになって仰向きにぶつ倒れてうなっている。もう一人の姿は見えない.左右をさがしていると、大丈夫かとどなりつつ、うしろからかけつけてきた。それほど私たちはとばされていたのであった。さっそく恨承の車を叱陀して、山手通りの外科病院へ走った。暗い車中でしかとは判らないのだが、膝のあたりに何だかぬるぬるしたものが流れている。すねに傷ありえ血だ!、指をあてて承ると膝のあたりに大きな穴があいている.その瞬間に私はいっぺんにグーーャッとなってしまった。下敷きになっていた友を車にのせたときにば篇を貸したほどの元気であったのに降りるときには足が立たないで、逆にその友に支えられて入院した。あとで聞くと私が一番重傷であったのである。いまの布引のところは、見通しがよくきくようになっているけれども、昔は市電のカーブするところが盲点になっていた。上筒井の方から走ってきた車が、市電を追い越し、前を横切ろうとしたとたんに、加納町から市電が突然曲り角に現われてきて狭まれそうになった。フル・スピードで真ん中を横切ったまではよかったが、ブレーキをかけても、あいにく雨天のためにスリップし人道の上に乗りあげてきて、私たちをはねとばしたのであるあとで聞くと、運転手は赤穂の田舎で免許をとったほやほやの翌日、御大典の神戸でひと稼ぎしようとて、地の利もさだかにわからない市内を流していたらしい。そんな車に巡りあわしたのが運のつきであったのであろうが、しかし相当の深手であったのにもかかわらず、肝心の膝の皿にはひび一つはいらなかったのが、不幸中の幸いであった。おかげでと言えばちとおかしいが、ちんばにならないですんだの承ならず、その後、厳寒のときでも少しも痛まないほど完全に全治した。そのかわり私はほんとに真正真銘文字どおりの〃すね渥傷もつ男″となった。よほどひどかったと承えて、やがてムスターファをむかえるこの年になっても、スソをまくりあげるといまだに立派にその残こんが止められている。人間はどんなおえらがたでも、何かすねに傷をもっているばづであろうと思うけれども、私のように本まものをもっている者はめったにあるまい。私はれ?ざとした傷をすねにもった男ではあるけれども所謂すねの傷はかえってすぐない方でばなかろうかと、それをせめてものめ慰にしている。(神戸大学教授)’51

元のページ 

page 9

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です