KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年6月号
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I別!代々の神戸っ子は、かれらがまきちらしてゆく空気のなかでうまれ、そだち、この街をつくる大事なメンバーとして活躍してきた。日本の大都会は、どの町をとっても、たいていは明治以前からの歴史をもち、城もしくは寺という封建勢力を中心に発展してきたものだが、神戸にかぎっては、慶応三年の開港当時は、山と海とわずかな漁村があるだけの海浜にすぎなかった。京都は平安時代にすでに十五万の人口をもち、大阪は元禄時代に七十万の都会であり、東京は文化文政期には百万という世界有数の大都会であった。これらの都会どもは、明治の開国期になってその封建的体質のまま、大あわてで頭だけは洋髪にしたが、足には下駄をはいていた。いわば宿場の娼妓がにわかに良家のお嬢さんのかっこうをして町を歩きだしたという戯画以外のなにものもなかつたが、神戸だけはちがっていた。明治の開国とともに、つまり明治の開国精神をもって、あらたに砂地のうえに出米あがった町なのである。したがって、この町には、日本のどの都会にもある。あの奇好な排他性がない。その極端な例として、京都や金沢や熊本を思いだすがよい。東京でさえ、他郷出身の者が住むときに感じさされるあの排他性は、日本の都会が、いまだに封建分藩制の名残りをとどめている証拠であり、かれらが都会ではなく、大きな村にすぎないといわれるゆえんである。神戸の歴史は、そういう日本的性格のふつきれた史的地点から出発し、その体質をつくる土壊を、日本的伝統にもとめず、つねにミナトに入ってくる外国船にもとめた。この都会が、六大都市のなかで、ついに異質なものになったのは当然なことである.※港の外国船をランチのなかから見あげながら、私は、この神戸がなぜ他郷人である粟津さんを魅了したかについて考えていた。(なるほど、長崎うまれやな)長崎という町が、江戸時代にあっては神戸的性格をもつ唯一の町だったのだ。それに、京城そだちである。

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