KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年6月号
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※「神戸っ子」の五十嵐さん、小泉さんのほかに、神戸きっての船舶通といわれる神戸新聞外務部長の大淵シトム氏がわざわざ案内の労をとってくださった。私のほうでは船好きの愚妻がついてきた。むかえてくれたなかに、もう一人、重要な人物がいる密家内の友人で、産経新聞文化部の記者粟津信子さんである。この人ほど、神戸を愛している神戸人を承たことがない。つねに十分の会話のうち一度は、コウベということばが出る。粟津さんのふしぎは、五十嵐さんなどとはちがって、はえぬきの神戸人ではけっしてないのだ。彼女の神戸との縁は、新聞社の神戸支局に数年在勤しただけの縁にすぎない。よその詰嬢さんの閲歴を申しあげてはすまないが、このひとは長崎にうまれ、京城でそだち、東京に遊学し、大阪につとめ、避戸に住んでいる。当然、彼女は比較都市学の権威にならざるをえない。その彼女が、大阪や東京を田舎と見、日本では神戸だけを都会だとゑている。彼女が神戸で私どもをむかえてくれたのは、たんなる観迎の目的ではなく、多少、監視の意味もふくんでいると私ほ邪推した。時と場合によっては、大阪の田舎者の偏見を、彼女は横あいから正そうとするつもりだったのであろう。※私どもは、神戸通船会社の港内遊覧船に乗った。先年、愚妻と横浜へ行ったついでに港内を承せてもらったが、なるほど、数字が示すだけでなく、神戸港は横浜のそれとくらべて、是絶した規模と美しさをもっていることが、ひと目ゑてわかった.「あしたになったら、アメリカの航空母艦が入ってきますねん」と船のなかで五十嵐さんがいった。外国船の一つ一つについて、大淵さんが専門的な説明をしてくれた。粟津さんはだまっていた。航空母艦はいなくとも、外国船が、いっぱいいた。船は、その国の文化と伝統の象微であるということばが正しければ、そこに『外国』がいっぱいいた。かれらは、貨客を日本に運んでくるだけでなく、たとえば、ネクタイのガラや、婦人靴のモード、ちょっとした身ごなしや、咳ばらいの仕方や、食卓につくときの順序や、酒をのむときのセロリの噛承方まで、ふんだんに神戸の街にこぼしてゆく。1191

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