KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年6月号
15/60

あの〃サンマの歌″で有名な詩人、佐藤春夫は、文豪谷崎潤一郎と交遊も深く、神戸に来た事もたびたびで、代表作「田園の憂欝」は神戸からヒントを得て書いたのではないかと思っている人がある程だ。佐藤氏の話によれば、「田園の憂欝」は神戸には関係はないそうだが、谷崎が住んでいた岡本にはきていたという。「稲垣足穂氏が明石にいた頃、一度だけ彼の明石の家を訪れたことがある。ちょうど代表作「星を売る店」を書いていたころだ。稲垣君の特異な才能は十分に認めるが彼の生活の仕方が悪いために十分酬いられていないのは惜しいと思う」と言葉少なく語っていた。また、佐藤春夫は法念に深く心酔し浄土宗に帰依している。「哲人ニーチェが説く〃人間は馬鹿である、何という浅間しい智慧なんだ″」ということを深く考えてほしい文学でば〃いかに生くべきか〃ということがたえず、法然上人と私佐藤春夫蕊画..常洋謹:魂fも1111主題になっているが、私はこの答えが法念上人が説く宗教と一致していると思う。私たち人間の智慧は、あまりにも貧しいことに気付かなければならないと思う。ニーチェが説くところと同じで、聖者の智慧の偉大さにくらべるとあまりにも、浅間しいものだと感じる。ウイリアム・ジエイムスは〃いかに信ずべきか″といっている。人間は安心して生きたいという願いをいつもいだいているようだが、その最上の方法は、〃信じること〃だと思う。何も信じることが出来ないということはなんと悲しく、不安なことだ。信ずることが出来ない疑いを多くもつ人は不幸な人だといっていいだろう。法念上人は晩年に、仏教は自由に信じさえすればいいのだといっている。とにかく不自然さから解放された、上人の魂の偉大さに、私も深く魂をゆり動かされたのだ上人は〃阿弥陀の無限の慈悲をすなおに信じ、念仏を唱えることによって、浄土に導かれる〃と説いている。これこそ、もっとも宗教的な、宗教の本質にかなった教えであると感じない訳にいかない。理屈では駄目なので、人間貧富貴践を問わず楽しく生くべきものであり、正しいことであると感じたことは、また、すなおに信ずることである。学問は大切なことだ。私は思うのだが学問というものは学問のために学問をする程、馬鹿げたことはないと思う。何といっても自分で考え感じることが先決だ。その自分の考えなり、感じを確認することが学問であり、読書の道ではないかと思う。私も、法然を感じ、考え、法然の著はしたものを読承私の考え方が間違っていないということを教えられたものなんだ。、最近の読書なり、学問のあり方には、この点が忘れられ勝ちになっているのではないかと思う。(詩人)灘蕊蕊

元のページ 

page 15

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です