KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年5月号
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と自分からいうだけあって四角な顔をしたいかにも労働者出身の闘志型の男だった「そうだっか、流石にブン屋さんやな。実は吉田の事件をやれ、世論に訴えて、波止場の前源代的な実態を知ってもらおうと思いましてや、このとおりパンフレットを印刷してまんね」支部長は私の用件を聞き終ると、そういって一枚のパンフレットを見せた。「なるほど、波止場では暴力より、明日から来るな、が恐いか」「そうでんね、アンコは殴られても蹴られても、明日の作業につきたい。そういった気があるさかいに、手配師や荷役監督のリンチを受けても凝つとこらえておる.それが結局、今度のような事件になるわけでんがな」私は自分の考えている事とは逆の事をいってふた。「然し、吉田が殺されたという事は、噂の範囲をでていませんね」「けど、殴られている現場を目撃したうちの組合員がありまんね、.それから入院して間もなく死んだ、警察は、いや特に水上署は波止場の資本家に弱いさかいな。死亡診断書かなんぞで、書類調査しただけで済してしもうた。実際には、検死してませんのや」「そいつは初耳だ。ところで支部長、このパンフレットを一般にバラ撒くのは、ちょっと待って貰えませんか。僕が責任をもって、事実を追求します。勿論、阪神日報の記事にもする。殺された事が真実なら、証拠の死体がすでに灰になっていても警察が動かないわけには行きますまい。」支部長は私の顔を凝っと見ていたが、「僕の一存じあちょっと、そやさかいに闘争委員会の討議にかけてから」と慎重なところを見せた。私もそれはそうだと思った「ごもっとも、ところで、このアンコの身元を洗って置きたいのですが、それでこの男を入れていた手配師と三1481相手に警戒されると思った。電話を切って外にでた.「底荷の砂糖、詰め替え作業、事故が起るわけがない。そらそうだ。すると待てよ」私は無意識のうちに独白を咳いていた.「そうか、そうなれば、どうしても吉田守夫という男の身元を洗わなくてはならない」私は吉田がアンゴとして就労した三次下請業者を探す気になった。神戸港には三次下請荷役業者は二百七十社もある。その二百七十社を洗ったところで、荷役会社がその日雇いのアンコの名前なぞ知っているわけがない。といって、元請会社であるK運輸に、十二日の阿蘇丸で荷役をした下請会社を聞くのは、まだ危険だ。もし殺されたという噂が本当だとすれば、証拠隠滅をやれと忠告に行くも同然だからだった。私は考えた末、総評系の全日本港湾労働組合神戸支部の協力を得ようと思った。全港湾労組に行けば、元請会社から三次請会社に至るまでの系列リストが資料としてあるだろうし会社別に重量物、雑貨、バラものと称される砂糖、小麦粉なぞの荷役業着があるいは判るかも知れないと思った。関西汽船阜頭の西側にでると、国産波止場にある木造二階建の全港湾労組が見える。私は小走りに走った。全港湾労組の前まできて、私は迷った。赤旗がたち並んでいた。団結と染抜いた鉢巻きをしている組合員の後ろに八波止場の中間搾取をやめるVとか八暴力に黙るなVといった激が張られてあった。待遇改善賃上げ闘争で、ストライキに入る前だった。「こいつは下手すると全港湾労組に利用されるな。港から暴力追放、全く手頃な宣伝材料になるからな」私は潮風を受けてはためいている赤旗を眺めながらつぶやいた。がすぐ歩きだした。「一人の人間が死んだのだ.ストに利用されるから。それでどうだというのだ」私は心の中で叫んでいた。支部長は僻の船頭あがりだ

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