KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年5月号
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’四Iく、いつの場合でも元町から発している。関西の誇りは、京都や奈良の古社寺だけではないようである。竜安寺の石庭、戒壇院の四天王像に比すべきものとして謡神戸元町のモダンーーズムの伝統がある。この事実は、神戸の人自身が、もっと誇りにしてよい。そういう観点から、さらに西へ歩いた。「風月堂」と、「柴田音吉商店」に立ちよった。この二つの店の印象はわすれがたい。たんに商店を訪ねたという感じではなく、大げさにいえば、西本願の飛雲閣をふたり、東大寺の二月堂を承たりしたときとおなじ感動があった。なにかしら店のたたずまいに、作りものでない美しさがあった。企業美という言葉がある、一業を深めつくすと、美に通じるものがうまれるものらしい。吉川進氏は、「風月堂」の主人である。洋菓子に賭けた異様な情熱をきかされた。話好きな人だが、奇妙なことにこのひとの口からついに経営ぱなしはひとこともきかされなかった。まるで、芸術家が自分の芸術を語るように、自分の洋菓子を語った。こういう商人の型は、大阪では類がすぐない.私は大阪人だから、むろん神戸よりも大阪のほうがすぎだし、身びいきもある。しかし大阪という町には、商品の良否よりも販売を優先させる伝統があった。商品さえ良くすれば経営はなりたつという思想は、在来大阪にはとぼしかった。極端にいえば、売れればいいという徹底した販売中心主義の伝統がつづいてきた。こんにちにあっては、もはやこれは販売の思想である。大阪経済の地盤沈下はこういう思想を払拭しないかぎり、どうにもならないことなのだ.品質第一主義の典型といわれるソニーの井深氏は神戸でうまれた。かれの精神のなかにある神戸商人の伝統が、あのトランジスタ・ラジオを生んだのであろう。かれは、その特異な事業をもって神戸商人の伝統を世界に認識させた。伝統といえば、神戸港が開港したのは、慶応三年十二月七日である。当時はまだ単なる海浜にすぎず、都市という形態をととのえていなかった。しかし開港後いくばくもない明治十六年には、早くも人口六万二千になるという異常な成長ぶりをしめした。もっとも、こんにちからすれば、六万二千の人口は、・町に毛のはえた程度にすぎない。紳士服の「柴田音吉商店」が開店したのは、この明治十六年だという、いわば神戸の神話時代からこの店は存在『

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