KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年5月号
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浦匡誹謡捨弟2同『ここに神戸がある司馬遼太郎ぇ・中西勝元町を歩くむかし、大阪湾にのぞむ野を摂津といった。神戸も大阪も、旧国名でいえば、ともに摂津国である。おなじ旧国名の地域で、これだけの世界的都会がふたつもならんでいる例は、日本中にむろんない摂津の国はもともと、津ノ国と称した。シとは港湾のことである「良錨地が多い」というのが、国名のおこりであろう。奈良朝以前から津ノ国には、二つの港があった。一つはナニワノッであり、一つはムコノッである。ナニワノッが大阪になり、ムコノッが神戸になったことは、だれでも知っている。この二港が総称されて、はじめて津の国であったのだ。不幸にして、明治の分県制度で、神戸と大阪は、ことなる府県にわけられ、それぞれ他人として成長した。おろかなことをしたものである。なぜ一つの行政体にしなかったか。まあいい。行政区分はくつくつでも、経済圏としては、この両都は一つのブロックなのだ。ただ、両都に住んでいる市民の人情気風は、ひどくちがっている。もし、いっしょくたにされれば、神戸っ子のほうがおこるだろう「あんなガラのわるい大阪者と一緒にされてたまりますかいな」「まったく」と、大阪者である私は、いつもこう答えることにしている、「そll8I

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