KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年5月号
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忘帰庵というところ/日本画で南画風の筆致で独特の存在である水越昭南氏の書が部屋の中央にある。「忘帰庵」と踊るようなのびやかな字である。百崎氏の話によれば、もう三○○年は経っているらしいと云う庭であり、部屋である。旧家といえば間違いなく古い家なのだけども、一向に古めかしい感じがしない。全くあか抜けのした古さだ.雰囲気はやわらかくてのびやかで明るく、まるっきり神戸っ子の部屋といった感じである。「この家はもと長田神社の神主さんの家だったんだ。私が子供の頃は、田圃あり竹薮あり、火の見櫓ありで、長田村だったんだよ。何しろ狸が出没していたんだからね面白いのは狸が喧嘩をするんだ。なかなかはでな喧嘩で負けた奴が、竹薮にぶら下がっているのを見たものだ。真陽小学校というのが母校で歩いて通ってたんだ。村野工業のあたりは池が多くてホスケツチム’101松並木の路があり、六角堂がありで遠い学校だったな、いまでもそのころの同窓会をやるのだが面白いよ。未正久右衛門、伊藤利勝氏などの外に家具屋さん、魚屋さんなど二十人程集まるよ……」百崎夫人は須磨浦小学校で、岡崎忠夫人とは同窓でクリスチャン「子供にはね、世界に通用する名前をゑんなつけているんだよ」と神戸っ子らしいご自慢・「長男は俊郎氏で(大阪武田製薬勤務)、長女がゆう子(東京住)、次女めい子(浦和住)、三女えふ子(オーストラリア住)それぞれ夫君と一緒なんだ。次が四女でけい子ですちょっとこさせましよう」と呼んで下さいました。聖心女学院の3年生、夫人に似て優しそうなお嬢さんです。「そうだな戦時中、この家に9世帯住んでたんだ、終戦後のてんやわんや時代も承んな住承ついていたからね」夫人も当時を想い出されて「あのころは大変でしたね全部で四○人程いらっしやったことがあるんです。夕食ころになると一部屋づつ、違ったおかづの匂いがしたりしてもうおかしくって」「その間に結婚式が3組もあってお祝いの席に早替りするし葬式も4組程あるという具合なんだ」「それでもあのころ何かしら人間の気持が温かくて助けあったものですね。よかったですわ」「戦時中のころを思えばほんとに懐かしいな、密蜂も飼ったし山羊もいたし、豚までいたんだ。庭は一坪農園でね。けい子は憶えているかな、まるで動物園だった」「知ってる。あの田圃におっこちたん憶えているわ」(笑)「昭和二十年の三月と六月の戦災のたびに世帯がふえてね、ちょうど六月のときは三木の山奥の方においもを買いに行ってた時でね。それも自転車でね、坂道をひつくり返えりながら行ったものだよ。そして翌日帰える時に空雲なんだ心配しながら帰えって来たのも忘百崎辰雄氏‐その家族ビオフエルミン製薬社長

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