KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年5月号
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函した速達ハガキが届いて、「東京に来て何日とかになるがすっかり疲れて今夜の夜行で神戸に帰る、ちょっとお会いしたいので出られたら出てきてほしい」という意味のことを走り書きして、場所が指定してあった。それにも川崎澄子と書かれていた。インキのにじんだような雛くちやの速達を見て、(ほかに考えることもあって)私は出て行かなかった。それから二、三カ月たった大晦日の晩に彼女は阪急六甲の線路の上にとび下りて死んでしまった。死ぬとわかっていたら、或は死にそうな気配があの一枚のハガキにただよっていたら.:など、あまりに月並ふな感傷であろう。メロンは若木のままに枯れたり、われとわが果実の重承に耐えかねて。だけど彼女のように、実も結ばぬうちに、いや、ろくに花にもならぬうちに散ったものは何と歌ってやればいいのだろう。やっぱり私の第一印象「年齢のない娘」であったのかとあきらめて承るが、阪急六甲を通過するたんびに、なんでこんなシマラン所で砕けたのだろうかと、不可解でもあり、腹の立つような気持にならないではいられないのである。ついでにl私に最初会ったときの私の第一印象を.「蛇の目のような、何とか…」と書いているのを死後に知った。私が蛇の眼のような美しい目をしているはずがないから、見当ちがいである。もっとも彼女は美しい目という意味で言ったのではない、すぐにつづけて「量冨品の連中の方がよっぽど愉快で」と書いていた。’三十六年四月I・筆者紹介明治三十六年八月生、広島師範卒、現在東京に住む、昭和二年から十九年迄神戸小学校、成徳女学校で教職。代表作「エデンの海」趣味写真・昭和三十六年四月神戸にて「野の仏」北条の石仏写真展を開くtえ・中西勝191

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