KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年5月号
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181碁乱『;.。‐r・ロく涛旨館というのは何世紀かの頃ヨーロッ。ハの海を荒しまわった海賊団で、文学同人雑誌の名前にはすこし物騒だが、ともかくそういう誌名のトーシャ版雑誌に久坂葉子という女性の書いたものを見て、心を引かれ、同人の一人であった島尾敏雄に、彼女の書いたものはどんな断簡零墨でもゑんな見せてほしいと言ってやったら何日か後、彼女自身が、須磨の私の仮住居に風呂敷包にさげて持ってきた。私は女性の年齢にあまり関心のない方だが、この子はいったい幾才なのだろうか?:…・とまず思った。寒いころだったか、黒っぽい服を着ていた。十七、八にも見え二十七、八にも見えた。すこし膝を斜めに崩した恰好でタバコを出しては何本も吸う。なかなか上等のタバコでなかなか堂々たるの承っぶりで、あんたは幾つかね?と訊いたら十六ですと答えたのにはおどろいた。このおどろきは、彼女の、書いたものにも通じる・承んなで十四、五篇、もっとあったかしら。篇というにはあまりに未完成な、しかし珠に成りかけの真珠の卵とでも言いたいような、ともかく妖しいほどのキラキラしたものを感じて、こいつはモノになる!と私は手を拍ってよろこんだ。こまかい経緯は略すが、その中でいちばん首尾ととのったそのかわり平凡な作品が、のち芥川賞候補になって彼女はちょっと名前が出かけた。早くも地方の新聞に何か書きはじめたときいて、書かせる方も書かせる方だし書く方もいけないのではないかという気がした。もうその頃私は神戸を引き揚げて東京に移っていた。彼女と二、三度手紙のやりとりがあったが、いつも川崎澄子と書いていた。私が、「久坂葉子」よりも「川崎澄子」がよっぽどいい、久坂葉子という。ヘンネームは自分でいやになる時が来るにちがいないなど言ったことがあるからであろう。それからまた一、二年たって、東京駅か新橋の方で投羨望若杉慧
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