KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年4月号
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幼き日苛想い出岡崎真神戸1141わを手に、〃施行、施行、ノーセギョー〃と唱えながらお詣いりするのをよく見掛けて、異様な印象として残ってるよ、稲荷はお狐さんだろう、商売の神様だから華商の人がお祭りしてたんだろうがね…。居留地風景居留地あたりは、まず神戸の雰囲気がいちばん強く出ていたよ、私もよく憶えているが、この画のトムソン商会、オリバー・エバンス、それぞれ各国の領事館等のしゃれた洋館が並んでいて、外人がゆったり散歩しているといった異国情緒は、私の青年時代の心に深くし承こんでいるような気がする.戦災で焼けてしまって、あのエキゾチックな味も消えてしまったようなものゼ。いま残っているあのころの建物といえば日綿実業のビルぐらいのものだろう。町全体として考えて見ても、神戸が開港場という名で栄えたこの名残といえば北野町あたりだろうな…また居留地という雰囲気がこしらえ上げた神戸スタイルというのは確かに他にないようだ。洋服でも割合色彩の薄い、いわゆる・ハステル・カラーや替えズボンが似合う土地柄なのだ。東京あたりの黒っぽい洋服の多い土地柄と全然違うように思えるんだ。忘られない開港場風景そのころ鉄道はまだ、高架になっていないころだ。「一番の踏切」これが鯉川筋あたり、「二番の踏切」がモダン寺あたり「間の踏切」が花隈のあたり、いまの花隈の治作の上あたりに社交クラブの神港倶楽部があって、玉突場や特売場になったり、音楽会もあったりしてさかんだったね。港町風景は中突堤、国民波止場のふきんだ。いまも残ついてる西村旅館とか、後藤回漕店とか、その他移民宿が並んでいて、活気のある雑踏のなかで、面白い情趣があふれていた。食堂には、ハワイ帰りの人がいる、移民印神戸商工会議所の会頭室には、神戸っ子画伯小松益喜氏の力作、「英三番館(五十号)」がかけられ、にぶく光っている。岡崎真一氏は、いうまでもなく国政に参与する人、百戦の英雄らしき貫録は十分だが、今日ばかりは、ユニークな神戸っ子スブイル、千田是也ばりの童顔をほこるぱしてへ「今日は難かしい話はなしにして、神戸っ子になってしまうよ」といいながら話された。幼なき日の諏訪山海と山が神戸を代表するんだが、その神戸で一番、神戸らしいのが諏訪山だと思っている。あの諏訪山の中復西寄りに、赤い屋根の洋館があるだろう。あれが私の生れた家なんだ。親父が建てた家なんだが、今は飯野さんにお譲りして寮になってるらしいんだがね…。小学校は諏訪山尋常小学校だよ、だから諏訪山界隈も想い出ば懐かしいね。あの辺には「ため池」がたくさんあってね。ふきんに県立女学校や山手に頗栄幼稚園、その西あたりに、いまは小林に変った神学校があったりしてね。当時、私の家近くに稲荷さんがあるだろう。寒中に、支那の人が、この稲荷さんに行列を作って、あげ・おこ
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