KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年4月号
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仏神戸には地方紙が二つ、三大新聞の支局の他に経済専門紙の支局も二つある。土地柄、経済部の中に海運記者という特殊な呼び方をする新聞記者がいる。経済部と社会部記者の混合したような性格で、港湾関係、船舶の動静や事件を担当している。私が阪神日報のサッ廻りから海運記者に廻わされたのは入社して六年目だった。海運記者を一度はする、といった事は阪神日報の習慣として出世コースにつながっていた。それだけに私は私なりに張切って、商船ピルの中にある海運記者クラブに、毎日通っていた。、雨の少い神戸では、そろそろ夏を思わせる六月の中旬その日も私は十時を廻ってから、海運記者クラブに顔をだじた。毎月のことだが、月の中ぱは各商社が資金繰りの関係から荷積承を控えるので、船舶の出入港も、まばらだし吾々も眼の色を変えて追うような事件はなかった。「なにか、面白い話はないか」私はシャツの襟を拡げて、風を入れながらK紙の記者に話しかけた。「あれば、先週の週間誌なんか、読んでいられないね」「御説のとおり、じゃあヘボ将棋でもさすかな」そんな中細西野連載第1回ことをつぶやきながら、投げだしてあったK新聞の綴込を取りあげた。K新聞は地方有力紙で、市内の事件は比較的、小さい事でも報道する.私は時間つぶしに、社会面を読承だした.八船内事故で日雇人夫(アンコ)死亡Vそんな見だしで港湾労務者が海岸共済病院で死亡した記事が五行ほど社会面の片隅に小さくのっていた。私の視線がその記事を追っていた時、M新聞の若い記者が、「そうそう、青木さん、社会部の記者ならちよいと気になる話を聞いたんですよ」と云った。私はめくりかけた手を止めた。「ほ-、話って」「リンチを受けたアンコが共済病院で死んだそうです。殺されたも同じだ、なんてアンコが喋ってましたがね」私は社会面の片隅にあった見だしの一一倍活字が、ふいに六倍活字ぐらいの大きさに見えた。警察(サッ)廻りの記者のくせがまだ抜けていない私は、すぐ呆けるように「じゃあM新聞の社会部の仲間にお手柄させてあげれば」「それが、市内版にちょっと入らなかったのですよ。支局は弱いですからね。早く本社に帰らないと、ドサ廻りで終っちまうって、友達はぼやいていました。僕も本社1471犀耕三勝・画

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