KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年4月号
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I私はパリを知らないが、小説や映画で承る。ハリの小市氏を感じさせた。第二次大戦には予備役陸軍中尉として出征したという。日本の市民の生活の肉のあつさも、ヨーロッ・ハの文明社会なゑになってきたわけだ。ただしこれは神戸だけかもしれない。「近衛歩兵連隊でしたから、戦友会は東京でやります。年に一度です。いつも家内をつれて行ってやります。東京は道路の横断が大変ですから、私が、家内の肩をだいてやったり手をひいてやったりすると、東京のやつら健かかあ孝行だといってわらうんです。まったく泥くせえやつらのあつまりですよ。神戸へ来て承る、といってやるんです。事実、友人が神戸へ遊びにくると、なるほど、といってくれます。この街じゃ、レディ・ファーストはわしらのじじいのころからの習慣ですからね。はじめは毛唐のまねだったんでしょうが、いまじゃ、ジについてますよ」毛唐の物真似は日本じゆうでやっているわけだが、神戸ほど伝統のある町はないというわけだろう。話の順がつい逆になって、帰りのくだりからはじまってしまったが、私がこの日の夕、神戸へ行ったのは、この雑誌の編集者である五十嵐恭子氏にたのまれて、この原稿の取材をするためだった。正直なところ、交渉に来られたときは、お引きうけするのが物憂かった。私はものぐさだから、雑用はできるだけ避けたい.しかし、私は関西に住んでいる。土地のためにはできるだけ働きたいとおもっている.多少の気ばらしにもなることだし、それに、神戸をまるで知らない。ちょっとお前、やって承る気はないか、と自分をつっついて承るとひどく乗り気になってしまっている自分に気ずいた。「ではやりまし襲う」というと、恭子氏は当然だという顔をして、「ほなら、十一日の夕方六時にサンノミヤの改札口で待ってます。最初に行ってもらうのは酒場のアカデミーです」店は、カノワ町にある。正確にはヌノピキ町になるらしいが、神戸ではカノウ町のアカデミーというほうがわかりがいい。店へ入ると、前記の青木さん、神崎さん、それにカットを担当してくださる中西勝画伯が待っていた。中西さんは映画俳優のカーク91凸

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