KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年4月号
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「麦風さんなら、お母さんがお願いしてあげてもいいよ」家庭から一歩も出たことのない平凡な母の口から、こともなげにこの言葉が出たのには驚いた、そういえば私の幼いときすでに、わが家には油絵、日本画がふんだんに飾られてあった。これは承な当時のお客様からいただいた自作のものばかりである。この店が文化人からウヶたわけはもう一つ、瑚排がうまかったことにあるらしい。当時、居留地と呼ばれた海岸通りの食料品問屋、オリ・ハー・エ・ハンス商会からひいたもので、母がその頃どんなにおいしい瑚排を飲ませたかは、後年私がその本格的なつくり方に眼を承はり、味わって驚嘆したことからも充分に察しられる。私が生まれたので母はこの店を閉じ、外人の多く住む山の手で菓子店をひらいた。商品は引続いてこの英国商社から仕入れている。母の話に聞いていたこの商会の建物については、古き時代の神戸の異国情緒をふんだんに書きとどめた小松益喜画伯の印号の大作がいまも氏のアトリエに飾られていて、当時の面影をあざやかにしのばせてくれる。私はこの油絵を承るたびに、赤練瓦の倉庫を思わせる建物から、いまにもあの扉を押して当時の若く美しい母が、仕入れた瑚排や生クリームの篭をささげ、足早やにあらわれそうな錯覚にとらわれるのだ。いつの頃からか私が、あの傑作を母存命のうちに買いとりたいと大それた望承をいだくようになったのも、佃数年の間この道ひとすじに、小さな機帆船会社を経営してきた父にではなく、こうした母に似たものと思われる。印を越してなお美しさを失わぬ母は、歌舞伎について、そらおそるしいほどの通であると同時に、いまなお東和商事ばりの洋画を愛している。かっての母の店もこのようではなかったかと、その片鱗をしのばせてくれた店が、戦後の516年は点在していた。その代表が、大阪の「創元」である.その店は難波高島屋から御堂筋を北へ半丁ばかりの右手にあってその名の書店の奥につつましい一室をもっていた。、人も入ればいっぱいの簡単なテーブルと椅子。今は名も忘れたが、としでいえば印くらいの上品なおばさんひとりが世話をやいていて、喫茶店というよりクラブと呼んだほうがふさわしく、ここへ立ち寄れば詩人のだれかに必ず会える。最年少の私にとって、それは無性に嬉しかった。出版社につとめ、当時から童詩雑誌の監修に当っておられた竹中郁さんの下働きをやっていた私はここへ立ち寄る機会に恵まれていた。ついこの間、小野十三郎さんが《」の店の思い出をある雑誌に書いておられたが、安西冬衛さんもこの店には愛着をもっておられたし、長谷川竜生や、いまは開高健夫人の牧羊子など、若い活発な詩の旗手たちひとり残らずがこの店に立ち寄っては一席ぶって、意気揚々とわが家へ引きあげていった。戦後の数年が今では戦前に思えるくらい、その思い出はたのしく懐かしい。lこの文はさきに浪花のれん八大阪Vに掲載したものと重複していますが、郷土神戸で陽の目を見せてやりたいと思いましたので:….。I(詩人)青木重雄春めいてきたので、こんな題で書きたくなったわけではないが、このほど、ある婦人会から依頼された講演の題が、なんと「男性の心理」l一応承諾はしたものの、さて、こんな粋人向き?の題を、よりによってどうして自分のごとき人間にご指名がおよんだものか講演当日になるまで、どういう話に持ちこんだものかと、われながらいろいろ頭をひねってゑたものだ。新聞記者に一番依頼の多い時事解説なら、ニュースに平行してまとめ上げる要領はわかっているものの、「男性の心理」なんていう問題は、心理学者か文学者向きのもので、どうも新聞記者としては特派の部類に属する。やさしいようでヘタに処理すると、鼻持ちのならぬ恐れも充分に予感される。といったようなしだいで、あわてたり、後悔しながらもどうにか約束を果たした(といっても結果の1511男性の心理

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