KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年4月号
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母のやっていた店一つの思い出意、不遇の時にいつも励ましてくれた(これからもそうであろう)守護神に等しい。もしあの日、元町通りで友人に逢わなかったら、切符をくれなかったら、W・ケンプ氏が来日していなかったら、海員会館に行かなかったら、音楽の世界は永遠に私には縁なきものだったろう。偶然というものは恐しいものである。(神戸いすずモーター株式会社常務取締役)山口清介出かけて粛然と耳を澄ます情熱まで持ち合わせていなかった。それに、切符をくれた友人の高飛車な態度もシャクにさわったが……、とにかくどういう風の吹き廻しか、リサイタルの当日、私は海員会館の一隅に席をしめていた舞台には、元町の山葉から貸したとかいう大きいコンサート・グランドピアノがどっしりと坐ってる定刻ケンプ氏は、あのひたいの広い赤毛の頭を振り振り舞台に現れ、一礼してピアノにつくと、しばらく視線を舞台の天井の一隅に注いで、聴衆など眼中にないような態度だった、やがて手が銀盤にあがって、バッハのカンタータの最初の豊かな和音が響りはじめた。私の胸のなかに、楽しいlというより、何か悲哀に近い感動がおもむろに湧き上って来たのはこの時である。シューマンの小曲、ベートーベンの〃月光″〃熱情″とプロが進むにつれて、私の胸の中の感動はますます激しくなって来た。自分の息ずかいが切迫して行くのが自分で押えられなかった.轟々ととどろく熱情ソナタの最後の和音がピタリと止って万雷の拍手が起った時、私は真っ先に会場を飛び出して、やたらに街中を独りで歩き廻った。ロの中では、「俺は、音楽が好きになった。ピアノが大好きになった」と、絶えずつぶやきながら:.…。私は、この時以来、生涯消えそうもない音楽に対する愛着心が植えつけられた。特にバッハからベートーベンまでの作家は、私の失昭和十一年の三月だった。私は神戸一中をその年卒業し、京都の三高を受験して見事に失敗した。徹慢にも自信満々だったので三高ひとつしか受けていず、まず一年は浪人生活が予約されたこととなり、或日ぼんやりと元町通りを歩いていた。と、同級生の友人にばったり出逢った。彼は私の意気消沈の事情を聞いて、「元気を出せよ、一年位の浪人が何だ?人生長しさ。これにでも出かけないか?俺は用事が出来て行けなくなった」ある高等師範に合格した彼は、こんな大人びた口調で、一枚の音楽会の切符をくれた。海員会館で行われるドイツのピアニスト、W・ケンプのピアノリサイタルの切符だ。私はその時まで、音楽が嫌いではなかったけれど、今の大部分の若き淑女達のごとく、雰囲気としてあればよい程度で、硬いクラシックの音楽会に藤本義一私の生まれるまえ、神戸三越のすぐ東にあった又新日報社の近くで、母は喫茶店をひらいていた。とりすましのない店で、新聞社の人たちの溜り場になり、作家や画家が毎日かよってきては仕事の連絡場所につかったという。短かい原稿や小さなカットなど、ここで簡単にやっつけてしまうことも再三であった戦後、ある雑誌の装帳を日本画家に依頼することになったとき、母は静かにこういった。一---1141
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