KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年4月号
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漫才の発祥地は神戸である。発祥地と言うのも妙な言い方だが漫才は最初から今のよ月な形ではなかった。最初は、日露戦争の戦勝気分で盆踊りが例年より盛んに行なわれたその盆踊りの音頭だけが、踊りと切り離されて興業化されるようになった。終戦後ののど自慢大会が盛んになって行った経路と似ているが、その音頭の興業がなかなかの人気で、音頭の代表は江州音頭と河内音頭の二つであった。当時は東京の浅草の奥山でも、江州音頭の興業が圧倒的な人気をおさめていたし、東京以上に本場の関西では江州音頭と河内音頭の興業が盛んであったし、また当時は今の歌謡学校と同じように方々に稽古所ができて、ぶな音頭を習いに行ったものである。その二つの音頭のうち、河内音頭は興業の最初から三河万歳の太神戸と漫才夫の才蔵の形式をとり入れて、「万歳」と名乗っていた。この二つの音頭が、言わば漫才のはじまりで江州音頭も後には河内音頭の「万歳」に合流するようになったのである。この二つの音頭の「興業」としての発祥地が、神戸の新開地なのである。今までの話は、日露戦争が終ってからのことで、漫才の歴史もそれ以来ということに普通なっているが、実はもう十年前、日清戦争の終った後で、この音頭の興業が新開地で行なわれているのであるそしてたちまち新開地で人気をあふりはじめたが、その時は内容が余り卑狼に過ぎるというので、当局からの命令で興業が禁止になってしまったのである。それから十年中断して日露戦争後である。日清戦争後の時には江州音頭の方が興業の主流であったが、日露戦秋田実争後は河内音頭の「万歳」が中心となり、「万歳」に江州音頭が合流した。太夫と才蔵の形式の中に今日の漫才への発展性があったのであろう。今度は、新開地ででも興業禁止を喰わないで、着々と新しい娯楽としての人気を培って行った。はじめは、いろいろの演芸の間に混っての出演であったが、はじめて漫才だけで興業するようになったのは新開地であり、また、最初は一流といわれる大劇場で漫才大会を演ったのも、新開地の大劇場であり、その時は新開地の他の劇場は大騒ぎであった。そういう意味で、漫才を発展させたのは大阪であるが、発祥地は神戸である。新開地で、庶民大衆に愛されて、漫才はその形を整えて行ったのである。だから、漫才の名前にしても×丸と「丸」が多いのは、港に出入りする船名の「××丸」にあやかつて付けたもので、その発祥当時の名残りである。(作家)10
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