KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年4月号
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小またまたピカソが結婚したらしい。ピカソは当年七十九才。花嫁は三十九才だ.たいした精力である。ピカソは現代世界画壇における不滅の焔、不滅の光りである。常にエネルギッシュである。ピカソといえば、一般にパプロ・ピカソで通っているが、実は・ハブロから始まって・ピカソに終るまでがたいへんだ。デイゴ・ホセ・フブシスコ・デイ・ハウラ……といった調子で、親の名からおじいさんの名、母方の先祖の名まで読承こんである。一人名か、数人名か、戸惑うくらいである。だから恋人も十人で足らず、女一房も三人ぐらいでは足らなかったのであろう。先妻との間にこどもが二人ある。前の妻君もたしかモデルだった。若くって美しくってIこんどの奥さんも実に美しい。あのしなやかな腰をピカソのあの毛深い運ましい腕がぐっと力強く抱きあげるのだ。うらやましいな、などと下品なことを言うものでない・オールド・バアというウイスキーの商品名にまでなったイギリスのバアじいさんは、人妻とよろめき、姦通罪で訴えられたが性力絶倫、百二十何才まで永生きした。青春とこしえに老いず、というんで、ウィスキーにその名を冠したのだろう。ピカソ禅の山本玄峰老師はことし九十五才だが、さいきん「無門関」の大著を出された。大道は無門、千差路ありだ。一芸一道に秀でた士は、道が違っていても、どこかにすぐれたところがあるんだろう。ピカソは共産党員である。かれが共産党入りをしたとき、ユマニテの記者が、「先生、画の方はどう変るでしょうか」と聞いたところ、彼は、「靴屋さんが王党だろうと、共産党だろうと鋲の打ちかたには変りはないじゃないか」と言下に答えた。ピカソはピカソだ。画はオレ独自のものだという強い信念からである。スターリンが死んだとき、彼は党から頼まれてスターリンの肖像を描いたが、例の調子で大胆奔放にやっつけたものだから、スターリンの尊厳を冒読したといって、クレムリンから叱られ、それに反溌して「バカもほどほどにしろ」としりをまくったこともある。すさまじい意気だ。彼は好んで鳩を画く。ハトは平和の象徴である.しかしピカソの描く鳩はいつも翼が折れたり、尾がちぎれたりしている。いわゆる「傷める鳩」だ。それは傷める平和にたいする抗議なのかもしれない。(神戸市史編さん委員長)倉敬二17!9
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