KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年4月号
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ひなげしにはない。去年の種子が、ここにこぼれ落ち。土深く埋まって、こうして咲いているのであろうか。lその生活力のたくましさ自然の恵承と愛撫l今さらのように驚かされる。春の太陽のもとに、手をいっぱい差し出しているように見える.こうして私は、春ともなれば、何か草の芽は出ていないかと、庭中くるくると見てあるく。春浅く花にとぼしき庭ながらこの一本のひなげしぞあり描かんと絵筆とる手にひなげしの花はくづれぬ春風とともに毎年、春の彼岸ともなれば、私の庭は百花の園ともいえる美しさになる。慨‐叩・蝿到痢鋼誠調鯛刺紳恥到しかし今年は、あのきびしかった寒さのために庭の花のつぼ承は固い。木蓮も、山吹も、ミモザーも木瓜(ボケ)も、いつ咲くとも知れぬ固さである。せめて草の花でも咲いていないかと、さがし求めながら庭を眺めていると、ハツと赤いものが目にし承る。近よって行くと、なんと〃ひなげし″が一輪、真紅の花を春風におどらせている。ここに種子をまいた覚えは、私洋間家Ij鶴唱古向寺x畢劉161
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