KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年3月号
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に乗った。降りるときに、いくらですかと女の子に聞いたら、お金なんかいらないのよという。ハァーただでこんなものに乗せてくれるのかと又々たまげた」これにはさすがに一同の爆笑につぐ大爆笑を買ったのであるが、戦後の昭和の御代に、まだ電車にもエレベーターにも乗ったことのない学生が、神戸大学に入ってくるのであるから、全く愉快でもあり、また日本も広いものかなである。△しかし諸者よ笑い給》クな。今でもスイスでユングフラウへ登り、終の下山電車の発車冴見て、雪の中をつまづきまろびながら、必死の形相で電車を追いかけ追いかけ、よ》フよう次のストップでとび乗ったという大学教授もある。こういう私、も一昔まえ、ニューョクで電車に乗ったが、車掌がいない。ヨーロッパに二年,もいて、外国の勝手は何もかも呑承こんでいるつもりだったが、乗るときに運転手の横に立ててあるボックスに十セント賃を各自がほり込むだけで切符がないというのは知らなかった。二つか三つ目の停留所で電車が止まったとき、運転手が私の方をふりむいて、早口に何かわからぬことをゴヂャゴヂャという。私は「ここで降りるのか』と彼が聞いているのではなかろうかと早合点して、否々と手を振った。十セント入れろといっているのに手を振ったのだから、乗客の大爆笑を買ったという始末であった。エレベーターでも、一人で乗っているとき、途中で故障をおこしてとまってしまい、あわてふためき宙ぶらりんというドイツ語をまちがえて、首をつった1首をつったとどなって、ベルリンで大騒ぎをまきおこした大学教授も大阪にいるp△一年半カリフォルニア大学で勉強をし、その間アメリカを方々旅行して最近帰ってきた青年がいうのに、汽車には一度も乗らなかったという。短期の旅行者ならいざ知らず、一年半もいて、あの広いアメリカ中を廻るのに汽車が要らないようにまで、バスと自動車が発達している御代とはなった。日に列車が一本しか走らぬ路線もあるようだ。五十年前の神戸から話をはじめたが、汽十年後の神戸はどうなっているであろうか。お上りさんが電車に乗ろうにも、電車がなくなってしまっているのではなかろうか。またそうなるべきである。大きな線路で道をふさぐ時代ではない。(神戸大学教授)古林喜楽カット中西勝小学校の四年生のころ、私は生れて初めて田舎から神戸へ出てきた。兵庫駅につくと、電車が走っている。どこででも乗せてくれるのかと思って、追っかけたが、止まったとたんにまた動き出してしまう.いくら追っかけても乗れない。とうとう新開地のあたりまで来てあきらめた。当時の市電は兵庫から春日野道までの一本だけで一区三銭四区にわかれていた。何分都会が珍しいので、右を見・左を眺めながめながら、うろうろ歩いているうちに、滝道もいつしか過ぎて、春日野道まで歩い症しまった。ほど近い叔父の家にょうよう辿りついて、〔歩いてきた」といったら、誰一人ほんとうにしてくれなかった。嘘なんてつくものかと、子供心に憤慨したことが未だに忘れられない。△五・六年まえの三月、私がまだ学長であったころ、卒業の式典をすまして、そのあとの学部ごとの謝恩会を順々に廻っていた。経営学部の会場へ入ってゆくと、イキのいい新卒の学士さんが、壇上で大いに気焔をあげている。「僕は瀬戸内海の孤島で中学を終え、電車もない町で高校を修了して、あこがれのこの大学へ入試を受けるべく生れて初めて神戸へ出てきた。兵庫へついて電車に乗ったら、そのとたんに、誰もドアーをしめないのに、ひとりでにしまってしまう。さア-えらいことになりにけり降りるときにはどうしようかと気をもんでいたが、さて止まるとまたひとりでにドアーが開く。それから二・三日して大丸へ行って、これも生れて初めてエレベーター,ノノノ“砂●ノ<))ノ『●←ノ151可
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