KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年3月号
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●までもなく味で全国に名を売った名肉。その名肉を提供する牛に対するこの村人の愛情は深い。自分は焼酎を飲んでいても、牛にはビールを飲ますという程である。だから、春山村駐在所の梅野巡査が、眼を丸くしたのは、ここのところ牛に対する村人の愛情を読承切っていて、屈け出た木山仙吉の気持が、今あたかも最愛の恋人を失った気持であろうと、深甚な同情の表現として、驚樗の形式をとったためである。「それでは、早速、現場検証しなければ」梅野巡査は、こんどは眉間に深く縦雛を寄せて言い、奥にとって返して現場検証用具が入った箱をとり出して来た。最近では科学捜査が普及していて、駐在所にも一揃いの指紋採取器などが備え付けられているのである。だがこの村では盗難事件など一年に一件か二件ぐらいだから、それは殆んど使われたことがない。「えらいホコリじゃ」梅野巡査は、明るぷに持ち出した箱のホコリに気付くと、再び奥に入り台所からハタキをとり出して来て、バタバタとそれを叩き始めた。こうして始められた現場検証であったが、現場の牛小屋からは、指紋一つ出ず、何らの痕跡もつかめなかった。「これは完全犯罪じゃな」梅野巡査は、非常に貴重な物を盗まれたのだが、それは非常に高度な技術によって盗まれたのであるから、それは敵もまた天晴れであるから、仕方がない、というような口調で言った。甲「旦那はん」いつの間にか現場の牛小屋の近くには、隣近所の人達が集まって来ていた.その中の一人が、梅野巡査に寄って来て、声を低くめて言うのだった。「うちの鶏が二羽居りまへんがな」「鶏がか?」「ええ、それが、今朝四時頃、妙な鳴き方したと思ったんでつけど、喧嘩でもしとるやろう思うて、放つときましてん、そのとき盗られたんと違いまつしやるか」「そうじゃな、そうすると、牛を盗りよったんも、その頃やな。ふうむ。……牛の時速は何キロや」「じそく?」「その……スピードやがな。一時間にどれくらい行く?」「そうでんなあ、一時間にせいぜい一里半でつしやろな」「そうすると一時間五キロか」梅野巡査は鶏が鳴いたのは、四時だから、四時に盗られて今、七時、丁度三時間過っている。その間に牛泥棒は鶏を乗せて一時間五キロの速度で十五キロ行ったことになる、と計算した。今ならまだ梅野巡査の警察の管内に居るのだまだ汽車にも自動車にも屈かない早速緊急手配が行われ、管内全部の非常警戒が張られた。しかし泥棒の所在は杏としてつかめず、鶏と牛は雲の如く消え去ったのである。「完全犯罪じゃな」非常警戒から帰って来た梅野巡査は、出迎えた妻の花子さんに説明した後、くたびれたような声でこう結論づけた.⑤1451hPINKCORNER世間では昔から〃手″の方が〃足″よりも尊いと思われていますところが元禄時代の俳人松井紋村(もんそん)という人が〃足尊手卑″の弁を述べています。、つまり手は〃雑役夫″に過ぎない。〃足″の方は「歩くという一役」さえやっていればよい。いわば〃上役″である。またオトイレに行って一番きたないことのあと始末をしなければならないのも〃手″ではないか。夜フトンに寝るときのことを考えても、必ず一番先に休ませるのは〃足″の方である。プロへ入るときも、お先に入るのは足ではないか。手から先に入ったという例は聞いたことがない。「今後は足を尊しとせよ」と松井さんは結んでいますが、やはり固苦しい昔のことで、手の重要な役割をご存知なかったようです.ことに恋愛なんかでは〃手″がなければどうにもなりません。「時にはよいこともするが、またどんな悪いこともできるその白い手」とヴェルレーヌも歌っています。サクランボをつまむのも足ではダメです。ちょっとしたスキ間からでも、いつの間にかすべりこんで、ヴエルレーヌのいう〃悪いこと〃に夢中になっているのも手です。ラッ。ハを吹けよ・城門を開け。そして〃手″は威風堂々と入城します。(T)
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