KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年3月号
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林芳夫「こちらにやって来たのが昭和十二年だから、もう二十四年になる最初は西宮に住んでいたんだが、戦災を受けて焼け出され、神戸銀行に住承込んだり娘と一緒に間借り生活してね。これは未だに忘れられないことだ。それから山本通三丁目附近に移り、また中山手通七丁目に移ったというところだ。」六甲の想い出私は戦前よく山登りをして、ハイキングなんだが、日曜ごとに、あるときは芦屋から宝塚に、時には、横断して有馬に抜けるなど、六甲山をいろいろな角度から登った頃があったが、楽しかったよ……四十ぐらいの時だったかな、ちょうど神戸銀行の運動部長をしていたのでついていったようなものだが、この頃の六甲の印象はいまも強く残っている。その頃、銀行倶楽部が三菱銀行神戸支店の一墨(三越の前)になっていて、倶楽部で昼食をとってから、元町を散歩しながら銀行に帰えって来るのがたのしゑでしたね、元町の四季を楽しんだようなものだれ夏になるとその頃流行のシャーベットなどを店に立寄って食べたりしながらね……神戸はほんとに住承よい、いい街だ。季候にも恵まれているし、食べ物も美味しいし、唾小春日和のやわらかい日ざしが、広々とした個室をつつんでいる。明かるい色調の絵画が数点かけられて、芸術家の部屋という感じだ。軽い人ざわり、背広もゆったりとこなして応揚な気品のある人、静かな口調で話されるが、その内におかし難い迫力も秘められている。楽しき回想伸一F1[●I()小蚤皿LLとくにいいのは物価が安いこと。名古屋に次いで神戸は安いんだろ。とにかく、東京、大阪から神戸に帰えって来るとほんとにほっとした気分になる。神戸の風土は最高だろうな。新らしい町づくりを戦前の神戸と、現在の神戸とをくらべると、どうしても戦後の神戸は見おとりがするように思える。戦後の回復が遅れて、復興が充分に推進しなかったのだと思うがこのことは神戸の経済に大きく影響しているようだ。とくに、電信電話機関の復興が遅れて、大阪との間でもなかなか連絡がとれなくて困ったものだ。私なども、電車で行った方が早いと思ったことが何度もあったからね…印度商社なども、これに困却してほとんど他地に移転してしまったほどだ。終戦当時、神戸は第三国人の勢力が強くて何かと復旧にさしさわりも多かったのも事実だがそれだけで済ましてしまってはいけ.ないと思う。やはり神戸を愛する人の気持が強ければもっと良くなっただろうと思う。郷土を愛する人々が、がっちりとした体勢をととのえて、神戸をよくするために前進すべきだね。夢のかけ橋といわれる、四国と神戸を結ぶ大橋の架設も結構だが、もっと神戸をよくするための大切な事業が残っていると思う。最近は県・市・商工会議所などが一体となって活発に動いているようだが、綜合的な体勢をもっと強化させなければいけないよ。道路の計画にしても、電信、電話、水道、ガス、下水道にいたるまで綜合的な計画を充分にねったうえでとりかかるようにして、何度も同じ道路を堀りかえすようなことは極力避けることだ、神戸は何んといっても貿易の町なんだから私たちで計画して作った繊維問屋街のようなものが、どんどん出来なくてはいけないよ。また大規模なものが作れるように条件をよくすることなども考えなくてはいけないだろう。神戸港は日本の玄関神戸は、神戸だけで繁栄するというようなことは考えられないことだ。京都、大阪、神戸を結んで大経済地域を確立してこそ初めて、神戸が日本の玄関になって来るので、そうすれば大神戸港が自然に脚光を浴びることになると思う。新らしい町づくりでは、名古屋などが一歩先んじているようだね。何んとしてもこの遅れを早く取り戻したい.それには神戸を愛す人が頑張らなくてはいけない。商店街なども外国でやっているような高層建築●三口二段ザ161
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